メディア論解説(その2)メディアはメッセージである

メディア研究

前回はメディアとは何かについて解説を行いました。今回はいよいよマーシャル・マクルーハンのメディア論の解説に入ります。

メディアはメッセージである

マーシャル・マクルーハンはその著書『メディア論:人間の拡張の諸相』(1987)の中で「メディアはメッセージである」という言葉を残しました。この言葉の意味をマクルーハンは下記のように説明しています。

電気の光を例にとれば、よくわかるであろう。電気の光というのは純粋なインフォメーションである。それがなにか宣伝文句や名前を描き出すのに使われないかぎり、いわば、メッセージをもたないメディアである。この事実は全てのメディアの特徴であるけれども、その意味するところは、どんなメディアでもその「内容」はつねに別のメディアである、ということだ。・・・(中略)・・・メディアの内容がメディアの性格にたいしてわれわれを盲目にするということが、あまりにもしばしばありすぎるのだ。・・・(中略)・・・電気の光はそれに「内容」がないゆえに、コミュニケーションのメディアとして注意されることがない。・・・(中略)・・・電気の光はそれがなにか商品名を描き出すのに用いられるまで、メディアであることが気づかれないからである。

(メディア論:人間の拡張の諸相. みすず書房,1987, p.8.)

マクルーハンは「メディアはメッセージである」という言葉の意味を電気の光で例えて説明しました。下の写真を見てください。これは路上にある走行注意を促す電光掲示板です。この電光掲示板から読み取れるメッセージは果たして何でしょうか?

chappyさんによる写真ACからの写真

電光掲示板には「豪雨時走行注意」という文字が並んでいます。この看板を見たとき私達は「雨が強いときには注意して走行しないといけない場所なんだ」というメッセージを受け取るでしょう。しかし、私達はこの看板が発しているもう一つのメッセージを無視しているのです。では、そのもう一つのメッセージとは何でしょうか?

答えは「私は光です」というメッセージです。

いやいや、どこを見てもそんなこと書かれていないじゃないかと思われるかもしれません。では写真の電光掲示板をもう一度見てみましょう。

「豪雨時走行注意」という文字が並んでいますが、この文字は何で表現されているでしょうか?

そう、それは電気の光です。では、この写真の電光掲示板を見て「あ、電気の光だ!」と思う人はいるでしょうか。おそらくほとんどの人は「豪雨時の走行注意を促している」と理解したでしょう。電気の光というメディアを無視し、文字というメディアに表現されたメッセージだけを受け取っています。

「メディアはメッセージである」とは「メディアそれ自身もまたメッセージを持っている」ということです。

存在を無視されるメディア

電気の光の例えだけでは分かりにくいかと思いますので、より身近なメディアを例に考えてみましょう。

Aさん:「私は本がとっても好きなの!」
Bさん:「へえ、どんなジャンルの本が好きなんだい?」

このAさんとBさんのごく自然なやり取りの中でもあるメディアが無視されていることに皆さんは気が付いたでしょうか?

「本が好き」と聞いたら誰もがその内容が好きなのだとイメージするでしょう。だからこそ、ホラーものか恋愛ものかあるいはSFものかといったジャンルを尋ねるのです。

しかし、中には本そのもの(紙のさわり心地、形、におい)が好きな人もいるかもしれません。それなのに私達は本を無視し、当然のようにその中身が好きなのだと解釈しているのです。

無意識のうちに本そのものが持つ意味やメッセージを無視して、別のメディアの「内容」(文字で表現された中身)だけに注目しているのです。


もう一つ例を挙げてみましょう。

手紙で告白…?
それとも直接伝える…?

ある人に告白するとします。「私はあなたのことを愛している」というメッセージを伝えたいとき、どのメディアを選択しますか?

  1. 会って直接伝える
  2. 電話で伝える
  3. 手紙で伝える
  4. SNSで伝える

このほかにメールを利用する人もいるかもしれません。では、どのメディアを選択するにしても伝える言葉が同じであれば全て同じ印象を受けるでしょうか?

「私はあなたのことを愛している」

このメッセージを電話で伝えるのと手紙で伝えるのとでは、どちらも全く同じ意味・価値を持つでしょうか?おそらく「それは違う」という印象を持たれることでしょう。

手紙1つとっても、ボールペンで手書きされたものとPC入力されたものと、あるいは血で書かれたものとがあったとして、果たしてこれらから全く同じメッセージを受け取れるでしょうか?

まとめ メディア論とは

同じ内容・事実であったとしても、異なるメディアを使うことで理解の仕方が変わるのです。

もし、メディアが全くの無色透明で何のメッセージも持たなければ、そのメディアを通して伝える意味内容はそのまま伝わるはずです。しかし、使用するメディアによって意味に変化が生じるのは、まさに私達が無視してきたメディアそのものもまたメッセージを発しているからに他ならないのです。

マクルーハンのいう「メディアはメッセージである」とは無視されたメディアが発している隠れたメッセージのことであり、メディア論とはこの隠れたメッセージが社会に与える影響に注目した学問なのです。


次回からはメディアが社会に与えてきた影響を考えていきます。印刷メディアの登場と「想像の共同体」を取り上げる予定です。

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